東洋醫學・漢方藥の文字

大觀本草への取組み

『經史證類大觀本草』への取組み

中國では古くから樣々な藥物が用ゐられ、傳承されてきましたが、漢代にはそのやうな藥物知識が本草書として纏められました。それ以後の代表的な書物は、次のやうなものです。

 

神農本草經 → 神農本草經集注(陶弘景、五世紀)→ 新修本草(唐代の敕撰本草書、七世紀)→ 圖經本草(蘇頌等、十一世紀)→ 證類本草(大觀本草、十二世紀・政和本草・紹興本草)→ 本草品彙精要・本草綱目(明代、十六世紀)

 

いづれの書も難解ですが、我が國の先達は、これらを漢文のまま読み下し、註釋を加へて活用してきました。但し、古書の常として、いづれの書も、傳寫の過程で生ずる誤字や脱落、あるいは板木への彫り誤りで蜂を峰に間違へるなど讀解上の障碍が多いのも事實です。それ故、最も博物的に網羅してゐる『本草綱目』が『國譯本草綱目』として和譯された外は、日本語に譯されることなく終つてゐるやうです。

しかし、日本人が漢藥を研究するために讀まねばならぬ重要な本草書は、宋代の『證類本草』であり、原本に使ふには「大觀本草」の柯氏本がよい、とは富山醫科藥科大學で長く和漢藥研究所の所長を務められた、今は亡き難波恆雄名譽教授の言です。難波教授は、大觀本草の復刻本を一九七〇年に廣川書店から出版してをり、さらに一九七一年には本草學の權威岡西爲人教授と共に、臺灣の中國醫藥研究所からも同書を出版してゐます。

 

一方當NPOの編輯部では、電腦で如何なる漢字をも使ひこなすことに、つまり外字處理に習熟してゐましたので、難波教授の意志を實現すべく準備をしましたが、不幸にして難波先生の在世中には具現化しませんでした。しかし富山大學和漢醫藥學總合研究所(舊和漢藥研究所)の小松かつ子教授がその遺志をついで、この大觀本草の日本語データベース化を開始しました。當NPOも御協力させていただきましたので、その成果のごく一部である「序文」と「索引」をここに發表いたします。詳しくは、富山大學の「民族藥物データベース」中の「中國藥草古典『證類本草』データベース」をご覽ください。(文字文化協會「大觀本草」編輯部)

 

 

『經史證類大觀本草』について

北宋、唐愼微の撰した『經史證類備急本草』(一〇九七)に、艾晟(がいせい)の増補を若干加へて大觀二年(一一〇八)に刊行された。

 

既成の本草書編纂と變らず、前代の『嘉祐(かゆう)補註神農本草』に新たに加條してゆく方式であるが、唐愼微は『圖經本草』を併せて其の圖を各藥の冒頭、其の條文を末尾に置いて補ひ、更に木蓋子(【) を置いて新註を載せた。新註はすべて他書の引用で、自説は無い。金の皇統三年(一一四三)に書かれた宇文虚中の記述(「翰林學士宇文公書證類本草後」)は次のごとくである。

 

「唐愼微、字は審元、成都華陽の人。(中略)診療するにあたつて人の貴賤を問はず、呼ばれれば寒暑雨雪に拘らず必ず往診した。士人を診ても一錢も取らないかはりに名方祕録の提示を請うた。士人たちもこれを甚だ喜び、經史諸書中に藥名、方論がひとつでも見つかれば必ず記録して唐愼微に告げる。かくして段々に集つたのが此の『證類本草』なのである。」

 

かうして新藥が増加され、まめに諸經史の記述を採録したことが書名になる。又、古方書から多くの單方を採入れて、本草と實際の醫療とを結びつけたのは、唐愼微の功績と云へよう。

 

後の明代に成つた『本草綱目』では失はれてしまつたそれ以前の本草書の面目を殘してをり、また、『本草綱目』が誤つて解釋してゐる部分を正すための資料として大變貴重なものである。

 

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